戦後や震災後、他の繁華街が復興するまでの間、いち早く復旧してにぎわっている。
しかし、他が整うといつの間にか衰退していく。
大きな力がかかると、人々は高架下という守られた強い空間に集う。
市街というモノが復興するよりも早く、人々は動き始める。
そのとき、高架下という囲われ守られた独特な空間は、本領を発揮して人々の活動を支え盛り上げてきた
そして他のモノが整うとすっと身を引く
人がつくった鉄道、そして高架は力強くいつもそこにある
人の世は移り変わる
そのなかで元町高架下はそっと人々とともに在りつづける
それはいわば、人がつくった数少ないカワラナイモノなのかもしれない
作成 角田優子
参考文献:『兵庫・風雪二十年』岩佐 純著 昭和41年 兵庫新聞社 『神戸史話 ―近代化うら話―』落合重信、有井基著 昭和42年 創元社
鉄道施設以前
- 鉄道が計画される以前は、田畑など何の変哲もない場所であった
鉄道開通1974年
鉄道開設
- 1871年(明治4年)鉄道敷設に伴う新市街地造成
- 鉄道敷設に伴い、市街地の造成が行われた。列車の停車場の位置が決定すると民部省は、省の用地として家屋の立ち退きを命じ、わずか一年の年月で道割りを行い約9万坪にわたる新市街地を完成させた。大規模な新市街地は完成したが、店舗等も出揃わず、開店してもすぐ閉店してしまうものもあったと新聞等に書かれている。
- 1874年(明治7年)神戸―大阪間鉄道開通
- 貿易港であった神戸も、新たな交通機関に人々は異様な熱狂と興奮に包まれたという。乗客は駅員に最敬礼をして列車に乗り込んだという。
高架化1934年
高架化
戦前
- 1934年(昭和9年)12月5日 神戸市内高架化
- 鷹取ー灘駅間の高架工事が二期に分けて行われた。現在でも、当時の高架が使い続けられている箇所もある。
- 1938年(昭和13年)7月5日 阪神大水害
- 宇治川や生田川などあちこちで河川が氾濫し、神戸の街は泥水に沈んだ。がしかし、元町では、高架が防波堤となり、流れる水の勢いを和らげたおかげで家屋の倒壊は免れたという。
戦後
- 1945年(昭和20年)8月15日 終戦
- 10月には、三ノ宮駅から神戸駅にわたる約2キロに及ぶ日本一長いヤミ市が出現していた。あらゆる文化が混在する中での取り締まりは困難を極めたという。当初、高架下は進駐軍の慰安所に予定されていたが米軍が拒否し、昔から神戸でのれんを誇ってきた業者に貸すこととなった。しかし、ヤミ市を追われた業者が流れ込み、最初は争いも多かったが商売人同士力を合わせようと“地をはう百貨店”として国際色豊かで個性的な高架下商店街となっていった。
阪神大震災後
- 1995年(平成7年)1月17日 阪神淡路大震災
- 神戸市街地が壊滅状態のなか、いち早く店舗が並んだのがモトコーである。鉄道の高架という構造が被害を最小限に抑えたのである。震災後5年ほどの間は、非常ににぎわいをみせたが周辺が整備されるにしたがってシャッター街となっていった。
現在
- 閉店する店舗も増えるが、個性的で雰囲気をもった場所として人々のなかに息づいている